【第二話】ビジョンは絶望の中で具現化される

※具現化(目標や考えが実現すること)
目次
※ビジョンの見つけ方は、最後の「ビジョンは絶望の中にある」に飛んでください。
人生で出会う人は次のいずれかだと言われる
何かの理由があって出会う人
それは避けられない別れがある
ある一定の期間だけ出会う人
それは避けられたであろう別れがある
そして、
永遠の出逢い
それは生まれた瞬間訪れる
「自分の幸せをわけてあげたい」という人に出会った4~5年後、私は、その人との決別を予告する「絶望的なこと」が起きた。
その人はどう思っているかはわからないが、私は、別件で起きた避けられない別れで気づいた「避けられたであろう別れ」だと思っている。
「自分の幸せをわける」と一言で言っても、求めるものと与えるものが一致することが前提になる。
それに幸せの定義は人それぞれ。
その人の「わけたい幸せ」が、
逃げることが前提なのか?
越えることが前提なのか?
何もしないことが前提なのか?
結局、どんな幸せをわけたいのか?
私から見れば、恐れから逃げることが前提の幸せにしか見えなかった。
それは、「相手は自分の中にあるものを行動で見せてくる」という原則に当てはめた時、私には思い当たることがあった。
その人から逃げている私は、その人自身、「恐れから逃げる幸せ」のことを幸せだと思っているように見えた。
相手の逃げる言動を通して、自分の中にある「逃げていること」を映し出している、もしくは、「逃げる」という言葉にまつわる「嫌なこと」が未完了であることから、嫌悪感が残っているかもしれないと思った。
いずれにしても、目に映る現実の全ては、自分の中にある再放送である。
もちろん、憶測ではなく、いろんなパラドックス(矛盾)を通して確信するに至ったことだが。
恐さから逃げる幸せをわけたいのであれば、それは結局、社会に「自分から逃げる人」を増やすことになる。
「たくさんの人に自分から逃げる幸せを分けてあげたい」
・・・おかしい。
私はそんな社会を目指しているわけではない。
なのに私は、その人の何から逃げようとしているのか?
私は、その答えを言語化できるまで数年かかった。
ビジョンを見失う承認欲求という魔物
最近は特に、自分の承認欲求を満たすために支援ビジネスをする人が増えた。
いわゆる資格を必要としない、カウンセラー、コーチ、コンサルといった肩書がつくビジネス等である。
誤解を恐れずに言えば、承認欲求を目的に「先生」をしている人を見極めるのは、お金を払う側である。
彼らが支援ビジネスを仕事に選ぶのは、安易に参入できる障壁の低さだと言える。
資格のいらない支援ビジネスは、誰でも今日から先生になれる。
しかし、承認欲求は、支援するのは「お金を払う人のため」ではない。
ここが、本物の先生との大きな違いである。
自分が承認されるために、相手を支援し、お金をもらう。
しかし、この状態は、お金をもらっているつもりで、実は、奪っていることになる。
なぜか?
「お金を払う人」のためではなく、「自分が外からどう見えるか?」にお金を使うので、それはもらってるように見えて、奪ってることになる。
だからスキルやマインドが高くなろうが、何年続けようが伸びない。
それでも、自分磨きには余念がない。
なぜなら、「磨いているように見える」ことが承認欲求の目的だからだ。
スキルを磨くのもマインドを高めるのも、「自分が外からどう見えるか?」のためなのだ。
だから、一時は満足しても、この承認欲求だけは、手を変え品を変え、自分が周囲に「どう見えるか?」のためにアクションを起こしていく。
この点も本物と大きな違いである。
人間には、欠乏欲求と成長欲求がある。
自分の満たされない何かを他者からどう見えるかの評価で満たそうとする欠乏欲求と、大げさに言えば、社会や世界に承認されたいという成長欲求では、後者のほうが「対象のためのビジネス」をし、社会や世界に承認されるための「まともなビジネス」をしている。
では、「まともなビジネス」とは何か?
それは、お金の使い方にある。
ビジネスとは、投資と回収だが、自分のために投資し、お客さんからもらったお金を、「自分がどう見えるか?」に使うことは、まともなビジネスではないということである。
他人がほしがるものを持つことで承認されたように幻想するため、こういうトンチンカンなことをやらかしてしまう。
他人が欲しがるものは、家とか車、ブランド品とか、物理的なものだけではない。
名前が持つ「イメージ」などもそれに当たる。

たとえば、「Googleで開発をしてます」と名乗るのと、「町工場でお客さんの喜ぶものを作ってます」と名乗るのと、他者から見て「かっこいい、素敵、すごい、憧れられる」と思うほうを選ぶということである。

自分が本当にやりたいことではなく、他人がどう思うか?という「ブランドイメージ」がほしいのである。
結局、最終回は「名前負け」というドラマになる。
欠乏欲求からくる承認欲求は、魔物である。
こういったパラドックス(矛盾)は、この人に限らず、知らないうちにそうなっていってしまう。
言ってみれば、悪意のない悪意。
本人に悪気はまったくない。
原因は、人生のビジョンが他人軸によって見えなくなってしまっているために起こる。
その人も人の本質を見抜く力があると豪語する割に、「本質を知りたい」が口癖だったので、「他人の本質がわかる自分の本質がわからない」ということ陥っていた。
これは、「私は他人軸です」と暴露しているのと同じである。
他人が自分をどう思うか?
他人から自分はどう見えるか?
こういった他人軸は、自分の選択基準が自分以外にあるということ。
当然、カウンセラーになる前に、自分がカウンセリングを受けて承認欲求を解決しなければカウンセラーはできないし、承認欲求がある段階でコーチングを受けても効果は期待できない。
コーチングは、「目標がある」ことが前提でやるため、他人からどう見えるか?が目標であれば、コーチングをしても効果はでない。
当然、コーチはできないのである。
その人もちゃんとビジネスにしたいと言いながら、空いた時間を確定申告の勉強に使うでもなく、友達とお茶を飲み、一人でいる時は、教材を作るために、ネットサーフィンで「受け売りできる言葉」を探していた。
この習慣から言えることは、「カウンセリングやコーチングをしたいのではなく、カウンセラーとかコーチになりたい」ということである。
カウンセリングやコーチングを受けない自分が、それらを受けたい人にカウンセリングやコーチングをしてお金もらう。
これは、自分が買わないものを人に売っているということである。
・・・おかしい。
おかしいこと気づけないために、土台はあったほうがいいと思いながら作るでもなく、教えるネタばかり集める。
避けているのは土台作り。
やりたいことはネタ集め。
それは、
見せるために頑張っているから、見えるところしか頑張れないからだ。
こうして、自己都合である自分にさえ気づけないのが、承認欲求の恐ろしさである。
都合が悪くなると逃げる理由に正当性が生まれるのも承認欲求の特徴の一つである。
私はその人に仕事場を見学させてほしいと行った時、「自信がついたら」と言った。
Facebookや嫌、Twitterも嫌、動画は自分が映らないイメージPVなら大丈夫・・・。
お客さんのニーズは前提になく、常に自分のニーズで売ろうとする。