デブなのにやり手なの、は論理の崩壊

AなのにB
というフォーマットがあります。
おでん屋なのにカレーが美味しい。
これは、おでんとカレーに因果関係があるので正しい表現です。
実際、大阪第三ビルに賄いのカレーが人気になったおでん屋「おでんばる」があり、ニュースにもなりました。
ですが、
デブなのにやり手なの。
これは、論理の崩壊です。
AとBの間に因果関係がないからです。
ブスなのに頭がいい、も同じです。
デブとやり手も、ブスと頭がいいことも、因果関係はないからです。
そもそも「AなのにB」というフォーマットは、AはBじゃない、という論理が成立します。
つまり、「おでん屋はカレー屋じゃない」ということです。
ですが、「デブはやり手じゃない」というのは、おかしいでしょ?
先入観、主観、固定観念ですよね。
どうしてこんな思考になるかというと、
自分より下を見る癖があるからです。
相手を下げないと上げられない思考癖から来ています。
素直に褒められない理由があるんですね。
①人は見えるものしか意識が向かない。
②人はメリットのある方を選ぶ。
よって、①+②は、下を見るメリットは、自分は変わらなくていい理由になる。
ということです。
上を見たらキリがない。
確かにそうです。
そうですが、
こういう人は、上を見ない本当の理由が他にあります。
それが、「劣等感を感じないため」です。
自分より下を見ているうちは、劣等感は出てこないので、いつまでも自分の中のずっと奥に在り続けます。
日本人の昔からある文化として、「みんなと一緒」があるけど、自分の目に映るものが、自分より下だと思って見ているなら、あなたのを見ている周囲は、「私より下」だと思って見ているということです。
なんといっても、みんな一緒だから。
Aさんのことを「私より下」だと思って見ているあなたを、「私より下」だと思って見ているギャラリー(周囲)ということです。
たとえば、あなたがBさんにバカにされとしましょう。
この時、周囲の人達は、あなたとBさんをバカにして見ているということですね。
こういうのを、「同じ穴のムジナ」といいます。
こうして論理の崩壊が当たり前になると、自分で気づくことは困難です。
人は自分を叱ってくれたり、意見してくれる人の声に耳を傾けられなくなると、おしまいだということですね。
何を言われたか?より、誰にそれを言われたか?で左右されるんですね。
尊敬する人に怒られたら素直になれたりするのが人間ですし。
人間って、そんなに出来た人はいないからね。
言葉というのは、どれも「定義」があるのですが、定義とは、「~とは?」を自分で定めるということです。
言葉を定義するのは、3つの思考法の中にある「意の思考」でやることになり、ビジネスで言えば、コンセプトを作るときに必要な考え方です。
意の思考 | 戦略(目的)を明確にする思考 |
情の思考 | 人の感情を動かすデザイン思考 |
知の思考 | 知識を知恵に変えるロジック思考 |
デザイン思考は、ブランディングとかプロモーションとか、ファンの気持や、コミュでいうと、恋人や家族など、相手のためにあります。
ロジック思考は、自分の成長とか、アイディアとか、スキルアップとか、問題の解決とか、物事を達成するためにあります。
たとえば、人によって美しさも豊かさも、定義するものは違うので、自分の定義は自分で決めてしまうことが大事なんですね。
あなたにとって、美しさとは何ですか? |
それは、なぜそう思うのですか? |
これらを言語化できるフォーマットが、「たとえば」と「つまり」です。
「たとえば」とは、あなたの経験を語ることです。 |
「つまり」とは、経験によって導き出されたあなたの答えです。 |
このフォーマットに当てはめたものを「価値観」といいます。
人は、価値観に合う人と出会います。
例)
私にとって「美しさ」とは、教養や礼儀が見える立ち居振る舞いです。
たとえば、就職の第一志望の合格率は、普段から「了解しました」という人より、「承知しました」という人の方が高いです。
つまり、普段から言葉の定義を持っている人ほど、他人に与える印象も美しく見えるので、私にとって美しさとは、教養や礼儀が見えてしまう立ち居振る舞いのことをいいます。
誰かを見下さないと自分を上げれないなら、それは劣等感を隠す行為にしかなりません。
それは同時に、誰かの好きなものを否定しなければ、自分の好きなものを主張できないということと同じ論理です。
こういう人たちは、「嫌いの共有」をすることで、劣等感を隠し合うようになります。
人の悪口を言ってるうちは、自分と向き合わなくてもいいしね。
つまり、
誰かを犠牲しなければ成功できないならば、成功や成就という城は、崩壊するということですね。
ヤマモトマユミ