疑念と疑問は結果がまったく違う
疑念ならやらない。
疑問なら探求し続ける。
同じ「疑」でも、歩く方向が全く違います。
言葉を定義するって、何を始めるのにも、最初にしないと意味はありません。
「意の思考」が定まっていないと、疑うことはよくないと思ってたりする。
だけどそうじゃない。
「疑い」をたとえば、「人を疑ってしまう」ということにフォーカスしていうと、確かに世の中には、本当に信用出来ない人や、集団もある。
だけど、日常生活で感じる不信感のほとんどは、つまるところ、実は、自分自身への不信感です。
自分の力を信頼出来なかったり、自信がなかったりするのです。
しかし、人間だれもが新しいステップに進んだり、未知の世界へ足を踏み入れれば、必ずと言っていいほどこの不信感は出てきます。
必須項目と言ってもいいぐらいです。
ですから、この不信感を足止めに使うのではなく、やると決めたことへの道中にあるマイルストーン扱いすればいいね。
そして、その不信感を抱えながらも、ひとまず出来そうなことを何かしら見つけて、それを実行してゆきます。
「何かをする」と決めることは、自分との約束です。
自分との約束は、それを守った分だけ、自分への信頼が増して自信へとつながります。
自信がないと人を疑うことが増えるのは、うまくいかないことを望んでいるからです。
自信がついたら出来ることが増えるから、できないままのほうが楽でいられるの。
でも、好きなことをしていいというのは、好きなことだけしてたらいいという意味はではないよ。
山本真弓