努力しても望む結果にならないのはなぜ?

今日は、ほしいものを手に入れる理由が「無いから」ならば、「無い」結果にしかならないという話です。
目次
無いから欲しいものは補償や代償で埋めようとする
失って得たものが何かわからない時は、「それを手に入れて実現したい理由」が手段になりやすい。
いわゆる、「無いから欲しい」という状態に陥りやすくなるのです。
何かを失うと「無い」と思うことが多いけど、実はそうじゃなかった。
「経験」が残っていたんです。
成功する人の特徴が、10回のうち8回は失敗すると言われるのも、失敗という経験が8回残るから、後の2回が実を結ぶからです。
たとえば、失恋して好きな人と別れたとします。
この時、好きな人を失って得たものがわからないと、意識の上では「いないから欲しい」となります。
リストラされて職を失った場合も同じで、失恋やリストラを「失敗」と定義するなら、「あの時、やろうと思えば出来ていたはず」のことが、誰にでもあるはずです。
あの時、やろうと思えば出来ていたはずのことって、「後悔」です。
その「後悔」をすっ飛ばして、「無いから欲しい」というのは、失ったものを埋めるための手段になってしまいやすいのです。
たとえば、誰かと別れた痛みを違う誰かで埋めようとする。
これは、補償行為です。
お金が無いからお金を借りる、これも補償行為。
誰かと別れた痛みをスポーツや仕事に熱中することで忘れようとする。
これは、代償行為です。
お金が無いからブランド物を売る、これも代償行為。
お金が無いから事業を撤廃する、買収される、これも代償行為。
補償も代償も、達成できない願望を違う何かで埋めようとするための手段に違いはありません。
でも、代償行為は、ある目標を達成したい欲求が叶えられない時に、類似した別の対象に置き換えることで欲求を満たす行為だから、補償と代償の違いは、劣等感があるかどうか、ということになります。
ということは、劣等感があるほうが補償です。
補償は、自分の欠点や劣等感を感じている面に対して、他の面で優越感を感じることで心理的安定を図ろうとします。
勉強で成績が悪いのを得意なスポーツで補うとか、出来ない何かを違う何かで補う行為は、うまくいくことの方が多いです。
でも、動機が劣等感を埋めるためなら、挫折する人が多い。
埋めても埋まらない劣等感は、補えばうまくいくということです。
劣等感を補って成功した人で言えば、バレリーナの倉永美沙さん。
美沙さんは、成功者の特徴である、10回のうち8回失敗する以上の失敗と挫折を繰り返した人でした。
倉永さんは背が低く、日本人独特の顔立ちがコンプレックスでした。
海外のオーディションも、それらが理由で落ち続けても、自分のコンプレックスをレッスンにぶつけました。
代償というのは、レッスンに熱中したからといって外人のように堀が深い顔になるわけではありません。
足の爪から流血する練習量は、耐え難い苦悩があり、私たちの想像を越えるものがありますが、自分の劣等感を補って、余りある力や技術を身につけ、アジア人初、ボストンバレイ団で最高位のダンサーになりました。
埋めることと補うことは、結果が違う。
結局、突き詰めれば、どんなことも表裏一体なのは同じです。
補償の場合、コンプレックスや葛藤の強さに比例して、不安や恐怖から逃れるための行為は、過度になっていきます。
その結果、それ以外で幸せになってはいけない(なれない)というバイアス(思い込み)も強くなります。
でも、手を変え品を変え、やることばっかり変えても、自分のバイアスを変えないのであれば、低迷を繰り返すだけなんです。
好きな人を失った悲しみを埋めるために、違う人とよろしくない恋愛に溺れていくなどはよくある話しで「低迷からの泥沼」というドラマができるわけです。
自分にできたはずのことをやらないで、それ以外ないと思うだけでは、不安や恐怖から逃げるために行動するだけですから。
自分の行為は、
愛からか?それとも怖れからか?
ここ、すごく重要です。
それも立ち止まると自分で明確になるはずです。
「終わり」というのは、自然現象ではなく努力の結果だし、それぞれが出来たはずのことをやらなかった結果が「終わり」です。
依存は、他を一切無視してしまうので視野が狭くなって、正常なものの考え方ができなくなります。
代償は、自分の達成できない望みを違うことで満たす行為だから、劣等感はありません。
でも、補償と同じで過度になるほど、「後悔」を繰り返します。
自分の失くしたものを違う何かで埋めようとしているのか、それとも、補おうとしているのか?
どっちなのかがわかるのが「無いから欲しい」と思ってそうしているのか、必要な理由があってそうしているのかで見えてきます。
気持ちは見えないけど、態度に出てきますからね。
手段の目的化は努力しても成果がでない
で、問題は、補償や代償に限らず、手段を目的にしていることに気づけない時に起こります。
手段が目的になるというのは、言い換えれば「正しいことを間違った動機でやる」という行動です。
当然、ほしいものを手に入れても"無い結果"にしかならない。
前項の例えで言えば、好きな人が欲しいのではなく、寂しさを埋めるものが欲しいということです。
それって、寂しさを埋めるための手段が好きな人になるわけです。
これがまさに、正しいことを間違った動機でやっているということです。
当然、動機が間違っていれば、疑念という行動で見えてきます。
不信感って、信じていたつもりなだけで、実は、最初から疑っていたという現れですからね。
こういうのって、自分が立ち止まらないとわからない。
恋愛以外でも手段の目的化は、望む結果にはなりません。
Aという資格がないから、行きたい会社に入れなかったとします。
そこでAという資格をとったとします。
その資格を活かせる仕事が、3年、5年と続いていく中で、いろいろあっても、なんだかんだいっても、問題に立ち向う情熱が保てているなら、とった資格は、自分の人生を実現するために選んだ仕事を達成するための手段の一つに過ぎないわけです。
倉永さんは、ダンサーになることが目的なら、代償止まりだったはずだし、当然、社会から「歓喜」は得られなかったと言えます。
つまり、1を達成するための2という手段は今度、2を達成するために必要な3という手段を達成するために必要な4という手段を達成するために必要な5という手段・・・という風に、まるで「じゅげむじゅげむ」の落語のように、1つの目的を達成するための手段は無限に出てきます。
たとえば、独立した人に必要な集客に必要なものも同じです。
ノウハウを知ってもPDCAができなければ意味がないし、ITスキルを覚え出したらキリがありません。
人間は一生学び続けなければ、成長はそこで止まってしまう。
そんなことは、誰もがわかっていることでも、知る目的で習うだけで終わる人の方が多いのが事実です。
昔、ノウハウ本を読む時間がないことが悩みだと言った人がいました。
この場合も、本を読むことが目的ならば、読んだ先がないんです。
であれば、時間がないことが問題なのではなく、ノウハウを使いこなせないことが問題なわけです。
ましてや、ノウハウを知ることが目的でもありません。
本を読むのは、ノウハウを知って使いこなすことが目的のはずです。
つまり、目的を達成するための手段が問題なんですね。
読めもしないものを手段に選んでも目的は達成しないですよね。
こうして、あれがない、これがないという「無いからほしい」という理由は、目的を見失っていくんですね。
手に入れたいものは「なぜそれが必要なのか?」についての明確な回答がいつも必要です。
成果が出ない人の多くは、「WHY」の答えを持たずにやっていることが多いです。
自分自身に必要な理由がないことが問題を作っています。
「みんなそうだから私も」とか、コモディティ人材から抜けないと自分に必要なものって見えてこないです。
私、いつも生徒さんに言うんだけど、ビジネスを含め、自分が今やっていることは、自分の人生を実現するための手段のひとつにしか過ぎない。
だから、「無いからほしい」と思ったら、無いものを求めることより、それを手に入れた自分は何を実現したいんだ?って、立ち止まって考えることのほうが重要なんです。
それに、自分に必要な理由は、自分の目的と一致しないと目標は達成できません。
なぜ?という答えが、目的と一致しないといけないということです。
好きな人が欲しいのではなく、寂しさを埋めるものが欲しかったなら、寂しさを補うものって、異性じゃなければならないことはないんですよ。